こんにちは
久々に 熊本日記です。
前回の記事から 約二十日も経ってしまいましたが
こっちは至って ものすごく順調です。
現実的に言うなら 下請けさんも増えて
解体工事完了件数が 増えすぎて この熊本日記をどういう風に
書いて行こうかを考えているうちに 時間が経ってしまいました。。
今日は この20日の間にあった出来事や
タイトルに書いたように 以前書いた 慰安旅行の続きを書き残しておきます。
慰安旅行 二日目
僕たちは 解体班とボランティア班に分かれました。
ボランティア班は 友達の櫛部 優子ちゃんが
以前の寮の時に 阿蘇のお母さんとご飯を作って持ってきてくれたので
そのお礼を兼ねて 南阿蘇の優子ちゃんのご両親のお知り合いの所に行ってきました。
その家は 夫婦二人で住んでいる住宅でした。
震災後 大雨が何度か続き 地震の影響もあってか
近くの川が氾濫し 土石流となって 家の中まで流れ込んでいました。
ボランティア班は ご夫婦が少しずつ片づけたものを
運び出したり さらに分別したりとしていたそうです。
そんな中 うちの不動産の会社の専務をやっている
高瀬さんが お母さんにずっと寄り添いながら作業をしていました。
まだ 片づけていない 家の中にあるものをどうするか聞く度に
お母さんは その物から思い出されるい出を話してくれたそうです。
捨てるか?残すか?
泥だらけになった仏壇や
「 もう 娘が使う事はないから 」
と 言いながら 捨てる事を考えると涙が零れるお雛様
一つ一つの思い出と向き合いながらの作業でした。
お父さんが 耕していた庭の畑には
植えてもいない 野菜や植物が育ち
それを見るたびに
「 あの日の事を思いだす 」
と言っていました。
作業が終わり 優子ちゃんのご両親が差し入れをもって
現地に来てくれました。
そのお茶を飲みながら 高瀬さんたちと一緒に話をしている時に
片づけが進んだからなのか
さっきまでとは 話の種類が変わっていきました。
その種類の変化とは
” これまで ” から ” これから ”
ご夫婦は 名古屋に縁があったみたいで
” いつか 名古屋で一緒に温泉でも行きたい ”
とか
” いつか 名古屋に来たら 一緒に食事をしましょう ”
なんて
さっきまでの
” この仏壇は・・ このお雛様は・・・ これは・・・あれは・・ ”
という これまでの話ではなく
これからの話になっていった。
物理的に 片づけをする事なんて 誰にでもできる
でも
その片づけを通して 被災者の人たちが 少しでも心が軽くなったのであれば 今回の慰安旅行の価値となります。
別れ際
高瀬さんが おかあさんにハグをすると
お母さんは 泣いていたそうです。
” ありがとう ありがとう また 会いたいね ”
悲しい思い出を 少しでも 軽くできたのなら
本当に良かった。
ボランティア班のみんなは 口をそろえて
” 行って良かった ”
と言っていました。
そして 南阿蘇を去り 解体班と合流して夜の宴会会場へ
当然の事ですけど
いつも通り くそうるさく盛り上がりました。
なぜか この二日目の宴会の写メで残っているのが
男同士が チューしている写真ばかりだったので
ここでは 控えておこうと思ったんですが
せっかくなので 載せておきます。
そして三日目
二日酔いの連中も なぜか 立てなくなり車いすに乗ってる奴も
残念ながら 写真は無いんですが
朝6:00から 僕に電話してきて
「 今 病院にいるんです 」
と言って 顔をボコボコに腫らしている人達を連れ
福岡の大宰府に行ってきました。
みんなで参道を歩き
集合場所に到着しました。
そこには僕を含めた うちの連中約三十人が集まっていました。
そして 氷室建設の旅行ガイドをいつもしてくれる
小木曽さんも いつも通りその場にいてくれていました。
結果から言うと 原因は僕が作りました。
なにかと言うと 集合場所につくやいなや
小木曽さんに言われました。
「 みなさん ボランティアガイドを頼んであるので ちょっと待ってくださいね 」
僕は 大宰府のなんたるかを教えてくれるガイドさんを頼んでくれたと聞いたその瞬間に言ってしまったんです。
「 そのガイドさんと一緒じゃなきゃダメなんですか? 」
小木曽さんは 氷室建設の事を 昔からよく知っているので
予定変更 あたり前
準備不足 当たり前
思いつきの行動 当たり前
と 理解してくれています。
氷室建設を良く知り 僕をいつも立ててくれる小木曽さんは
即答してくれました。
「 あぁ いいですよ 社長 好きなところ行ってください。 」
僕は 小木曽さんの言葉を聞きながら
もうすでに歩き始めていました。
そして 一通り見て
またバスに戻り みんなが帰ってくるのを待っていました。
そして 空港に向かい
小木曽さんがみんなのチケットを取りに行っている間に
みんなが笑っているので その理由をきくと
さっきの僕の原因に行きつきました。
僕が ボランティアガイドさんを待つことなく 一人で歩き始め
残されたみんなも
自由行動でいいのか?いかんのか?
と 葛藤している時に 三人のガイドさんが来てくれたそうです。
そして そのリーダー的なおじいちゃんガイドの人が
「 はい じゃぁ 三つのグループに分かれてもらえる? 」
うちの奴らはきっと
” えっ? 自由行動でもいいんじゃねーの? ”
と 思っていたに違いない
そんな彼らが 三つのグループにわかれるはずもなく
おじいちゃんガイドさんが 何度も
「 三つにわかれてくださいね 」
と 言っても みんな ダラダラとしていたそうです。
そして それをずっと目の前で見ていたおじいちゃんは
どんどんヒートアップしていったそうです。
「 早く 三つになって! 」
何度言っても 動かないうちの連中に
いまいには切れだして
「 いい加減にしろ! 」
何て言わせてしまう状態にまでなったそうです。
その様子を見ていた
氷室建設を熟知している 専属ガイド 小木曽さんも
どんどんヒートアップして
そのおじいさんと言い合いになっていきました。
そして おたがいが テンションマックスまで来たとき
小木曽さんは
こう言ってくれました。
おじいさん
「 君たち ボランティアガイドをなんだと思ってるんだ!
早く 三つに分かれなさい ! 」
小木曽さん
「 だから 何度も言ってるでしょ!
この会社は そういうの無理なんだって!!! 」
うちの奴らは そのやりとりをみて
爆笑していたそうです。
空港でそれを聞いた僕も 爆笑しました。
しかも 付き合いの長い小木曽さんだから
その言葉を発した時 小木曽さんが声には出さなかった
サイレントメッセージまで理解することが出来ました。
声
「 だから 何度も言ってるでしょ!
この会社は そういうの無理なんだって!!! 」
心の声
” 俺がこの会社を理解するまで
どれだけ苦労したと思ってるんだ! ”
間違いありません。
写真中央の柱の右手の人が
スーパーガイド 小木曽さんです。
みてもらったらわかるように
いつも 内の旅行に同行してもらい
わかれぎわになると
疲れ切った顔をしてます。
ありがたいことですね。
そんなこんなで 氷室建設の2016年の慰安旅行は終わりました。
最後に
以前 このブログでもアップした
津留の愛娘 セラちゃんの勇気と愛のしるし
” 思いやりのクローバー ”
が 出来上がりました。
できる事なら
近い将来
セラちゃんの目に映る人たちの中の
たった数人でもいいから
これを身に着けている人達がいる事を
心から望んでいます。
リストバンドと小冊子
セットで つけて頂ける人にプレゼントしてます。
つい先日にで出来上がったのに
僕がこの事を直接お話したら
「 手芸教室で 生徒に配りたいから60セットください 」
と なんともうれしい連絡をもらいました。
感謝の意味も込めて
僕と津留で手紙も書かせてもらいました。
ありがとうございました。
そしてなんと
今 おなじ熊本で 協力業者として一緒にやってくれている
親友の笹岡 義彰が
名古屋の有名市長 川村市長に
このセットを届けてくれました!
前にも書いたように
僕たちは セラちゃんの勇気
そして セラちゃんのいじめをなくしたい という想いを
少しでも多くのひとに届けたいと思っています。
費用は一切かかりません。
すべて 熊本の解体工事から出た利益で
まかなわさせてもらってます。
なので
共感してくださる人は
遠慮なく連絡ください。
株式会社 氷室建設
052-938-8791
担当 アシキ まで
連絡をいただければ
僕と津留の思いも形にして
送らせてもらいます。
ここまでの長文 ありがとうございました。